深大寺は、信仰と日常のあいだにある
深大寺のおふだを受け取った手の感触も、
門前でたぐった蕎麦の温度も、
白く咲くなんじゃもんじゃの木を見上げたときの、あの一瞬の沈黙も。
そして、湯の森で湯気に包まれた帰り道も。
どれも派手な出来事ではないのに、
歩き終えたあと、胸の奥で静かに何度も再生されました。
「ああ、来てよかったな」と、少し遅れて実感が追いかけてくる。
深大寺は、そんな余韻の残り方をする場所です。
願いごとを叶えてもらう、というよりも、
「大事にしたい気持ちを、思い出させてもらう」。
おふだを受け取ったとき、
それをカバンにしまう手が、いつもより丁寧だったのを覚えています。

忙しさに追われていると、
呼吸が浅くなっていることにも、立ち止まれなくなっていることにも、
なかなか気づけません。
でも深大寺では、誰にも急かされることなく、
「立ち止まってもいいんだよ」と、風景のほうから教えられる。
深大寺は、人生を劇的に変える場所ではありません。
でも、今の自分を、ほんの少し好きな位置に戻してくれる場所。
静けさは、連れて帰れる。
そして気づいたら、また歩きに来たくなっている。
深大寺は、そんなふうに人の心に残る場所でした。
深大寺の時間は、ここから始まる
おふだを受け取って、静けさを胸にしまったあと。
「次は、あの門前を歩きたいな」と思ったら、
深大寺の一日は、もう半分できあがっています。
門前の空気、蕎麦の香り、カフェで深呼吸する時間。
はじめてでも迷わず歩けた、
わたし自身の“ちょうどよかった深大寺の周り方”をまとめました。
→ 若者が今、深大寺に惹かれる理由。門前から嶋田屋、マイクロカフェへ
門前を歩いた時間も、
静けさに身を委ねた午後も、
きっともう、あなたの中に少しだけ残っていると思います。
深大寺は、
「行ったことがある場所」になるよりも、
「ふと思い出す場所」になるのが早い。
忙しい日の途中で、
呼吸が浅くなっていることに気づいたとき。
何かを決める前に、少し立ち止まりたくなったとき。
そんな瞬間に、
門前の石畳や、蕎麦の香りや、
あの静かな時間が、そっと浮かんでくる。

この特集が、
「深大寺に行こう」という予定ではなく、
「少し、余白を取り戻そう」という合図になっていたら嬉しいです。
歩くたびに、心が少し自由になる。
深大寺は、そんな時間を、いつでも静かに待っています。

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